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カテゴリー: 日本

日本を再び成長させる方法

日本を再び成長させる方法を考えてみた、
ドラえもんもいないし、スーパーマンも現れない。それが現実だ。
日本を再び成長させる方法。
日本国民全体が、やる気、モチベーション、やる気を出して働けば日本は再び成長できる。
とても簡単な事である。
夢がないなら夢を持った人をみつけて、その夢の手伝ったらいい。
希望がないなら、絶望を目にしたらいい。
農業、ロボット、エコロジー、宇宙。
今の日本、これから日本に訪れるチャンスのキーワードである。

ガラパゴス化

日本はなんでガラパゴス化したのか、誰がガラパゴス化させたのかふと考えてみた。
結論から言えば、日本がガラパゴスだったからガラパゴス化したという事なのだが。
日本の人口は約1億2千万人。日本語を共通言語とし、比較的所得格差も少ない。
そしてこの集団は、「高品質」「高機能」の商品を好む集団だった。
つまり日本企業は、この集団をターゲットとした商品開発やサービスを提供してれば、成り立って、
そういう環境が日本にガラパゴス化を招いたと言える。
もし、日本の市場がもっと小さければ、企業は積極的に海外のユーザーも含めたユーザーをターゲットとした
商品開発を行って来ただろう。
もし、日本が英語を共通語とする国だったら、日本企業ももうちょっと海外展開しやすい状況だっただろう。
ある意味ガラパゴス化というのは、ガラパゴス化できる環境があったという事であって、あるいみシアワセな
事なのである。
しかしそれは長くは続かないだろう。
先に述べたようにガラパゴス化するためには、「高品質」「高機能」を求める比較的まとまった集団が、
いなければならない。
今後日本人は減少を続け、経済的にも縮小していく。
つまり企業は日本人を相手にしていてもだめな時代がやってくるだろう。
だからいつまでもガラパゴスしていてはだめなのである。
もっと日本がグローバルに適応していかなければならないし、企業もグローバルなニーズを捉えて
サービスや、開発を行っていくひつようがある。
そのためには、生活者や、企業だけじゃなく、政府もちゃんとガラパゴス化しない規制と規制緩和が
必要だ。
でも国はあんまり頼りにならないから、今はまず生活者がこれをどうにかしないといけないと考え、
グローバルなニーズに適応できる準備をしておく事が重要なんだと思う。

酒鬼薔薇事件

久々に酒鬼薔薇事件の話題がニュースにあがっていたので、この事件について考えてみた。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=神戸連続児童殺傷事件&oldid=31088118
>1997年に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生(以下「少年」と称す)による連続殺傷事件
当時思ったのは
・通り魔的な殺人事件は捕まりにくい(時間がかかる)
・中学生でも連続殺人事件を起こせるという事
・本当に全部一人でやったのだろうかという疑問
といった事で、これらは今でもそう思う。
実際、この事件の前と後とで変わったのは、
「なんでもないような中学生が連続殺人をおこす事がありえる。」
というのが、定説となったという点だろう。
それ以外は以前となんら変わりがない、
たしかに少年法は改正されたが、同様の事件が起こらないようになったわけではない。
最も重要なのは、そのような事件を未然に防ぐ事だと思うが、
現状決定的な対策は見つかっていない。
ただそういった現状で、ひとつ言えるのは、
なんでもないような中学生が連続殺人をおこす事がありえる。
という事を覚えておく事かもしれない。
同じく過去の事件で覚えておきたいのは、地下鉄サリン事件
これにより日本でもテロは起こるという事が確かになった。
事件当時はテロという言葉すらなかったような平和な日本だったので、
日本でテロといってもあまりピンと来ない人もいるだろう。
しかも、もっと言えば、
数年前におきた、秋葉原無差別殺傷事件もある意味自爆テロだろう。
思うのは、誰でも殺人を犯す可能性はあるし、被害者になる可能性もあるという事。
ただ多くの場合は、殺人に至るまでの過程というものがありその過程のどこかでストップを
かける事ができれば、事件は減らせるかもしれない。
そういう点からすると、重要なのは犯罪の成長を察知して途中で犯罪の芽を摘む事なんだと思う。
世間に無関心でいながら、犯罪が起きてから、被害者に同情して、加害者を非難するだけという
現代の犯罪と大衆との関わり方は、問題だと思う。

日本のITはなぜ遅れてしまったのか

日本がITで、遅れてしまった理由は一言で言えば殻に閉じこもってしまったからに他ならないだろう。
いいものを作れば売れた時代もあったが、その過去の栄光に囚われてしまったのだろう。
成功体験は捨て、次の時代に向けてやらなければならないことをやらなければいけない。
確かに、15年前、インターネットというものがどれほど重要な意味を持つものになるか理解できていた人は少ないだろう。私もそうだった。
しかし、10年前には、現在のような音楽や、映像がネットで提供されるような時代が来ることが想定できていた人はそれなりに多くいたはずだ。
しかし、今でもCDに関しては今でも数多くのレーベルがネットは嫌々よーといっている。
テレビも、書籍も、選挙や、公的サービスにしてもそうだ。
著作権、セキュリティー、プライバシー。
結局日本人は、先頭に立つことを拒んだ。
他の人がやるのを見ていて、先を行く人が現れても、あれは違反だ!あんなのだめだと言い、認めようとしなかった。
そんな日本を変えるのに一番実現性が高いのは、日本人が変わり、マスコミが変わり、そこで天才が登場して変わるという事。
日本人がいまのままで、保守的であるかぎり、いくら天才が現れても変わらないし、マスコミは日本人が変わらない限り変わらないだろう。

Super Flat

東京に住んでいてこれは問題だなと思うのは、コンビニが多すぎる事である。
しかも今でもその数は増えている。
都市部の駅はどこを降りても同じ風景。
同じようなファーストフード店が並んでいる。
決ったメニューに想定内の味。
石田徹也 燃料補給のような食事
http://www.tetsuyaishida.jp/gallery/displayimage.php?album=2&pos=11
豊かさってなんなんだろう?
別に一人一人が個性的に生きるべきだとは全然思わないが、
あまりにも画一的だ。
とてもフラットな世界。
それについてはあまり不満はないが、すべて同じ型にはめるだけの社会が進行し続けるのなら、
我々はそれらと戦う必要がある。
人間が人間であるために。

デフレの中で

ジーンズの値下げ合戦とか、牛丼の値下げ合戦とか、
減少しているパイをとり合っても、寿命を縮めるだけで、
不毛な争いに過ぎない。
消費者からしてみれば安い方がいいとか、そんな安直な考えは、
今時なら小学生でも間違いに気がつくんじゃないだろうか?
安くするために削られるのは、人件費であって、人件費を削るというのは、
まわりめぐって自分の労働の価値を削っているという事だ。
後から100円損するのに、今100円安く買えて喜んでいるのと同じぐらい馬鹿げている。
デフレの時にすべきことは値下げじゃなくて。
値段は据え置きで、品質、サービスを向上させる事だと思う。
逆に生活者には、より安いものを買うという発想から抜け出し、
同価格でより品質のよいもの、よりよいサービスを選ぶという努力が必要だと思う。

内需 or 外需

他でも既に述べられている事だが、内需拡大は幻想だと思う。
たしかに製造業に偏った外需の依存で日本は世界不況の煽りをうけたが、
外需あっての内需であって、内需ありきの内需はありえないと思う。
5人子政策とか、戦争になって日本中が焼け野原になって1からスタートするとか異常な事態になれば話は別だが、それは想定外である。
これからはむしろ製造業以外の外需をひろげることが、今後日本の成長の鍵だろう。

鳩山内閣

なってしまったものは、仕方がない。
ただ民主党も100%悪というわけじゃなくて、プラスの部分もあるだろうし、
結果でみればプラマイゼロむしろマイナス程度ですむんじゃないかと、ある程度楽観している。
とりあえず、次の政権、自民党2.0が日本を取り戻してくれる事に期待したい。

最低賃金1000円以上

ネタにマジレスなのかもしれないが、
最低賃金が高くなるってことは、安いものが高くなるって事。
はやいはなし、低賃金労働者は死ねって話ですな。
間違っても、低賃金労働者が、同じ努力で給料だけ上がるなんて事はあり得ない。
そもそも日本が高度成長を遂げたのは、がむしゃらに働いた事で、低賃金で高品質のものができたのである。
お隣の国で、中品質のものが低価格で作れるのに、中品質のモノを無理矢理、中賃金にした所で競争力が落ちるだけでむしろマイナスである。
低賃金でも、デフレも手伝って低価格で色々買えていたのに、無賃金で中価格の商品を買うしかなくなったら、死んじゃうよね。

公用語

世界で最も英語が話せる人が多い国は、中国と言われている。
そろそろ日本の公用語に英語を追加してもいんじゃないかと思う。
言葉というのは、例えば、カセットテープのようなもので、このカセットに、「すげーいい曲が入ってるんだぜ。」と言ったところで、カセットデッキがなくなれば、何の意味を持たないゴミでしかない。
もしその曲を次の世代に残したいのであれば、CDとか、mp3のように新しいメディアやフォーマットに変換しておく必要がある。
日本の文化も同じで、いくら日本語がすばらしいといった所で、時代が変わればフォーマットも変る。
変換しないでおいておくと、その存在すら消えてしまう、かろうじて一部は博物館に残るだろうが、それでいいのだろうか?
だから、日本文化は自らの手で正しい英文で広め、残しておく必要がある。
よく海外の日本文化の紹介で、へんちくりんなものを見かけるが、
日本の文化もそういう運命をたどるだろう。
いくら日本語で、日本文化を残そうとしても無駄だ。
結局次の世代に残るのは、へんちくりんな英字解説と、変態新聞の記事ぐらいだろう。