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月: 2012年9月

所有と共有

モノを買ったりもらったりしてそれを、好きに扱う事ができる状態。
それを所有と言う。
自分の手元にあるけれど、誰かに返すものを借り物と言う。
一つのモノを借りたり貸したりすることを共有と言う。
買ったりもらったりしたものを、自らが使う事で失う事を消費という。
便利なものや、面白い商品は好きだけども、「物を持たない」という事にはなんだか憧れる。
それは、「ベンリなモノ」に囲まれる事に対する罪悪感なのかもしれないし、
便利そうでいて、実際には大して便利でもないものが、身の回りに増える事に対する
いらだちなのかもしれない。
世界に資源が有り余っていて、高価なものもいくらでも買えるとしたら、色々なモノに囲まれた
生活を選ぶのだろうか?
たしかに良いと思ったものは欲しい。
じゃあたくさん欲しいかというと疑問である。
同じものがたくさん欲しい。
んーなんだろう?
札束とかかな。

世界に染まらず世界とつながる事

世界は海と、空と、通信回線でつながっていて、物流、経済、文化など、様々なものが国境を越えて勢いよく流れ込んでくる。
多様性や、変化を受け入れた先に新しい未来があると信じている。
ただ、地球上のあらゆるものが、均質化されてしまうのは問題だ。
もっともそんなことは、普通おこらないと思うが、ある部分では進行している問題ではあると思う。
地域性、独自性の消失は、変化への適応力の低下を招く。
グローバル経済によって、ギリシャ問題が世界経済に波紋を広げたように、
世界が、広く結びついていることは、強さでもあり弱さでもある。
そこで必要なのが、独立性である。
世界で大きな津波が発生しても、そこは影響を受けない独立したエリアが必要である。
単純に鎖国していれば、世界の影響は受けない。
でもそれはちいさな水たまりのようなもので、放っておくと自然と蒸発して消えてしまったり、
いったん大きな波がおしよせれば、飲み込まれてしまう事さえある。
世界と常に繋がりながらも、すべてをそこに依存させずに、
独自性を守る事や、地域での独立体制を維持する事。
これは、実際の所どうすれば良いのかは難しい問題だが、
あるべき論としてメモしておく。

近所の電器店

急遽、光デジタルオーディオケーブルが欲しくなったので、近所の電気屋を何件かあたっててみるも、
お休み&店頭扱い無しという状態。
今時、光デジタルオーディオケーブルなど使うケースはほとんどないので、なくても仕方ないのかも
しれないが、これじゃあ、ネットの家電店や、コンビニに商機を奪われても仕方ない部分もある。
私の住む地域には、数件の電器店がある。
全部が年中無休というのは難しいだろうが、どれか数店が開いていて、どちらかに目当ての家電があれば
よいという事になる。
それを実現する為には、距離の近い電器店同士で在庫管理情報を共有し、
たまに売れる程度の頻度の少ない商品を、分散して確保する必要があると思う。
別にこれをコンビニがやっても良いと思う。
今や都心では、数十メートル行けば別のコンビニがある。
売れる頻度が少ない商品であっても、生活者がそれがどこにあるかわかれば、
もうちょっと先のコンビニに寄ればよいのだ。
商店街もそうだが、ネットや、大型スーパーと地域の小さな店が勝る部分は、とにかく近い事が一つだと思う。
欲しいと思ったら、数十分で提供できないと、そっちに流れてしまう。
話をまとめると
・コンビニを含め小さな店舗では、需要の多い商品だけに集中し、たまに欲しい商品が
近所ですぐに買えない場合がある。
・一店舗単位で考えず、地域内の複数の店舗の中で少しだけマイナーな商品在庫を持つ
・どこの店舗にあるか分からないと意味がないので、少なくとも店内に検索端末を置く。
できれば、スマフォやネットで検索できるといい。

トマト祭り中止

んまあ、あれ面白いそうだから日本でもやろうぜ的な軽いのりが、思いのほか非難を浴びて中止という事なんだろう。
たしかに、食べ物を粗末にしてはいけない。
とはいうものの、世界の中で、日本は食べ物の廃棄率でトップレベルだったはずだ。
というわけで今回は、食べ物は捨てていいのかという話と。
食べ物は駄目だけど、飲み物はよいのか?
という話。
まず、脱線先である飲み物はよいのか?という話。
飲み物として代表的な水。
水道をひねれば、そのまま飲める我が国ではさほどありがたくもないかもしれないが、
「水道水が飲める国は13か国」とかいう話もあり、人が生きていく上でも重要な
要素である水は重要な存在である。
ただ、水って生き物じゃなよね。
という反論はあろうかと思う。
たしかにそうだ、水は資源であって、生き物ではない。
じゃあ牛乳祭りとして、牛乳をかけあう催しはどうだろう?
牛乳は本来、牛の子供が育つ為にあるものだ。
それを人が飲む為に品種改良してできたのが、ホルスタイン 乳牛 であり、市販の牛乳だ。
愛媛で、町おこしとして、ポンジュース祭りを催し
ぽんジュースをかけあう催しならどうだろう?
ビールかけはどうだろう?
ビールかけは、「資源を浪費する無益な行為」とか批判はあり、
ビールかけ用ビールがあったりするようだが、まあ祭りというのは、そもそもそういうもんだと思う。
理由づけはともかく、無駄遣いをしたり、普段しない事をやって、ハッピーを共有するってのが
祭りなんじゃないだろうか。
何が楽しいかは人それぞれだし、そもそもトマト祭りが本当に楽しいかどうかも謎だが、
世界のどこかでそんな事をして楽しむ人たちがいても、別にいいんじゃないかとは思う。
で、話はもどって。
食べ物の廃棄率が高い日本の現状について。
まず誰がどこで食べ物を捨てているのだろうか?
・飲食店での食べ残し (消費者)
・家庭内での食べ残し (消費者)
・コンビニ、スーパーなどでの売れ残り (消費者、小売業者)
・生産時点での廃棄(生産者)
・加工時点での廃棄(加工業者、飲食店)
・流通時点での、品質問題(流通・消費者)
など、おもいつくところ。
飲食店での食べ残しは、日本一うまいとかいって激マズだったり、
かならずしも消費者がすべて悪いとは限らないが、多くの場合は消費者の問題だと思う。
家庭内での食べ残しも同様だ。
計画的に消費する事が重要。
コンビニ、スーパーでの売れ残りはどうだろう?
理論上は消費される量を生産すればそれで足りるが、実際にはそうはならない。
消費者は、豊富な選択肢から商品を選んで買う事を好むので、消費を予想して生産する事はなかなか難しいのだ。
つまり、消費者に買ってもらう為にはあらかじめゴミとなるものも提供しておく事が必要なのだ。
これはフードチェーンにおけるかなり難しい問題だ。
理論上は、消費者が、前もって消費するものを決めておきそれを生産者に伝え、正確に生産し、消費者が正確に無駄無く消費できれば、よいのだろうが、これはなかなか難しそうだ。
生産時点での廃棄とは、
台風でリンゴが落ちて、商品にならないから廃棄とか災害的なものや、生産過剰により売れないので廃棄とか、味や鮮度には問題ないが、見た目や流通上の都合で規格外のものを廃棄などの問題がある。
消費者は、食料の上流を知ることで、過剰な品質要求による廃棄を減らすのも大事だと思う。
加工時点での廃棄問題は、減らせれば加工業者も得なのでそれなりに取り組まれているのだろう。
無駄無く利用する事が大切である。
流通での廃棄とは、流通経路で適切な管理が行われなかった場合に、ゴミとなってしまうケース。
つぶれたり、輸送に時間がかかり賞味期限が切れたり、鮮度管理上の問題などもある。
ではまとめ。
食べ物を粗末にしてはいけない。
というわけで、とりあえず、毎日大量日破棄される賞味期限切れの食品でも集めて、
まみれてみる 食料廃棄大国祭り でもやったらいいんじゃないだろうか?
生ゴミだから、あとはバイオ肥料にでもすればよしと。