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カテゴリー: パソコン・インターネット

SNSに何を求めるか?

SNSの有害性が、顕著になってきた今、SNSとはどうあるべきか?改めて考える。

人によってSNSの活用目的はさまざまだが、大きく以下のように分けられる。
・既存の知り合いとのコミュニケーション
 これは、LINEでよいかなというところはある。
 もともとはFacbookももっとクローズドなSNSだったと思うが、利益の追求の過程で、
 中毒性のほうが優先された結果、今のSNSが成り立っている。


・ネットの知り合いとのコミュニケーション
 共通の関心を持つ人々とつながる場として、FacebookやInstagram、X(旧Twitter)などは便利である。
 一方で、攻撃的なコンテンツや、フェイクニュース、他人すぎる情報、などは、
 有害だったり、不要なものが多く含まれる。

情報

氾濫する情報の中で、欲しい情報というのは意外と手に入りそうでなかなか手に入らなかったりする。
そこで、その分野のスペシャリストだったり、それに関心を持っていそうな人をフォローすることで、情報を得られるというのが、SNSのメリットだと思う。

半径3kmのつながり

距離にあまり厳密な意味はないが、物理的に近かったり、距離は近くなくても、もう少し狭い範囲でのコミュニケーションというのもありだと思う。

完全にクローズドではないが、かといって誰でもOKというわけではなく、すくなくともそのコミュニティの目指しているものを理解し、発言できる、ちょっとした内輪。

村社会を抜け出して、お金による高度な分業を実行。それにより見ず知らずの人々は、集まって高度な機器や高層ビルを構築することに成功した。

その一方で、数百メートルの生活圏だったり、顔馴染みの人がいて、どこかしらのコミュニティに属していたり、そのようなニーズは今でも存在していると考える。

繋がりすぎた社会の問題点

社会が繋がりすぎることで、さまざまな摩擦や問題が生じている。

型にはまった統一性は窮屈で自由を奪うが、一方で、水と油のように性質が異なるものが同じ場所で快適に共存するためには、適切なゾーニングが必要だ。

油も石鹸の力を借りれば水と混ざっているように見えることがある。同様に、異なる価値観や文化を持つ個人同士でも、適切な調整や仕組みがあれば共存が可能だ。

究極的には、個々を石鹸膜のように保護しながら、社会に溶け込んでいるように見せる状態が理想だろう。しかし、モザイク国家のように、適度なゾーニングによる分断が、一定の規律や住みやすさを保つ上で必要になることもあるのかもしれない。

独裁、分断、孤立

現在世界でおきている現象や反応というのは、環境の変化によってもたらされた、反応であり、反応をそのまま見ているだけだと、おそらく解決にはならない。

必要なのは、自分たちには何が必要なのかをそれぞれ考えで、そのためには、繋がりとゾーニングを適切に実施していく事が重要なのだろう。

SNSの凋落

SNSが社会に浸透してしばらく経つが、マイナス面も徐々に目立つ様になってきたと思う。

悪用する方法が徐々に確立され、これまでのやり方では対策が不十分になってきたという点が大きいと思う。

特に、SNSが人々の思考に影響を与える力は大きく、それは化学兵器と同じぐらい慎重に扱うべきレベルに達しつつある。

アメリカの大統領選はもとより、コロナ禍の日本の政治やメディアに影響を与える存在になっているが、ユーザーは基本的に無防備である。

これに対する提案としては、

・AI技術による、投稿の抑制。

・個人認証の導入。

・情報の公開、非公開、ブロック、フィルタリングの充実。

をあげたい。

すでにYahooコメントなどでは、AI による投稿制限が行われているが、その他のSNSに関しても今後なんらかのAIが投稿をチェックを行うようになるだろう。

個人認証の導入に関しては、表向き匿名だが、任意で本人を証明できるようなシステムが必要だと思う。

これを実現するためには、マイナンバーカードのような高いレベルでの本人確認システムを通じ、個人を直接特定しない形で、2次的に保証することが必要だと思う。

例えばTwitterには認証バッジが存在するが、これは、フェイクニュースなどが蔓延するこの世界で、情報をオーソライズする事が時々必要だからである。

もちろん、匿名性を重視したければ署名や、アクセスコントロールは不要だが、そのような情報に従来のような価値はない。

政府以外が、個人を高い精度で証明することはできないので、こればっかりは政府にやってもらう必要があるだろう。

逆に国家にそれができないのだったら、今後その国家は住民をまともに管理・保護できない事になるだろう。

すでにワクチンや、災害対策で、迅速に個人に必要な支援や物資が届けられないのは、ここで差が現れ始めている。

情報のブロックについてはSNSサービス側でいまいちその重要性が、システム側に理解されていないと思うが、結局のところ多くのネットサービスが廃れていったのは、フィルター機能がうまく提供できず、ユーザーが疲弊してしまった事による。

例えばmixi は足跡機能問題だとか、他のSNSの存在などもあっただろうが、結局のところSNSの価値を理解し、マネタイズできなかったということに尽きる。

facebookも国内でのユーザーは減少傾向にあると思うが、mixiに比べれば、広告などが巧みだし、Instagramもまあうまくやってるし、まだ持ってるほうだと思う。

今後の方向性としては、広告だけでなく、ユーザーより直接お金を受け取るスキームを確立し、利用者にネットワークの価値を提供する事が必要だと思う。

そのためにSNS事業者は、情報のブロック、フィルター機能がもっとうまく機能するよう調整する必要があるだろう。

個人的には、マストドンのような、非中央集権的なSNSが登場して広まる事に期待しているが、

前述の様に中央集権的なSNSに増して、「個人認証」「フィルタリング」の重要性が高まるため、既存の技術やシステムだとなかなか対応できないのである。

その辺りは、政府による個人認証や、AIによるフィルタリング技術に期待したい。

インラインで失礼します

相手の内容の書いた文章を引用し、さらに文章の途中で返答などを書くときに、
この一文を入れる事がある。
別にインラインだから失礼という事はほとんどないのだが、
インラインにはイラっとくる文章に拍車をかける効果があるのではないかという例を
考えてみる。

今週も暑いですね。
いかがお過ごしでしたでしょうか 。
来週、淡路でスイカ割りを行うのですが、一緒にいかがでしょうか?
という文章に返信することを想定してみる。
【引用せず返信の例】
はい、今週も暑くて、扇風機が手放せなかったです。
来週は用事がありまして、またの機会にお願いします。
【インラインで返信の例】
>今週も暑いですね。
そうですね。
>いかがお過ごしでしたでしょうか 。
さあ何してたでしょうかね?
>来週、淡路でスイカ割りを行うのですが、
へえ
>一緒にいかがでしょうか?
やだ

まあ返信の内容がそもそも違うのだが、一言一言返信するとうざさが倍増と言えるのではないだろうか?
その他にもあくどいインラインメールの例をあげてみる。
・長いメールの内容を引用符をつけずに引用しなおかつ文章の途中に返信内容を書く。
・長いメールを全文引用して返信をその下に記載する。
・全文引用しての最後に一文字「で?」と書く。
・言葉尻をいちいち別の捉え方をして回答する。
・まとめて回答だけあればよい質問に、インラインで一問一答的に回答
次に、インライン返信を通常の会話におきかえてみる。
A.おはよう
B.今おはよっていったよね?おはよう
A.調子はどう?
B.今調子はどう?っていったよね?うーんどうだろう、いいのかなあ、
ちょっと悪い気もするし、でも昨日よりは良い気もするし、あーでも朝揚げ物食べすぎちゃって、
胃がもたれ気味だし…..。
というわけで、Aからしてみれば自分が言った事なのだからオウム返しされなくても、
分かってるって話だし、一文ごとに返信されても困る。
「インラインで失礼します」というのは、別にインラインが失礼だという事ではないのだが、
単純に、そこから下の内容はインライン形式で回答しますよという事を、先に示す為の
宣言であるというのが、私の見解です。

個人情報は誰のものか?

グーグルによる個人情報の収集に関してが分かりやすいと思うが、個人情報は誰のものかという
問題は、今後大きな課題になると思う。
既に個人の行動を特定できる情報は至る所に電子的に記録されている。
電話の通話や通信、購入履歴、預金、インターネットの通信履歴、防犯カメラ、駅の改札記録、電気・ガス・水道の使用履歴。
例えば、画像認識で購入者の年齢を推定しておすすめを表示する自動販売機がある。
これは誰が買ったかというものを特定するためのものではないが、推定年齢と購入した商品の関連付けが行われてそれが利用されているはずである。
他にも、防犯カメラ。
現在、あらゆる所に防犯カメラが設置されているが、それがどのように利用されているかも明確にされてないし、そもそもそこに存在するかどうか分かりにくいものもある。
最近では移動物、例えば自動車にもカメラが搭載されていたりする。
更にグーグルグラスのように動く人がとらえる映像を録画していくとどうだろう?
記録されるデーター全体も爆発的に増えるし、個人が利用する事でさらに広い用途に利用されるものと考えられる。
話は戻って、個人情報は誰のものか?
おそらく、他には誰もいない無人の島で一人で生きているなら個人情報はその人のものである。
以前にも書いたが、所有とは誰の邪魔もされずにコントロール可能な持ち物の事だと思う。
様々な制約があり、自由に扱えないものは所有ではなく借り物なのだと思う。
社会(コミュニティ)に参加するには、なんらかの個人情報を社会に提供する必要が生じる。
まず生まれたら、役所に出生を届け出て記録される。
要するに私の考えはこうだ。
個人の情報はある程度本人が所有しており、他人がその情報を使って良いかどうかは本人に決定権があると思う。
ただしコミュニティに参加する場合は、ある程度の個人情報を提供する事は必要だと思う。
コミュニティにより必要とする個人の情報やその程度は異なるだろうが、少なくともそのコミュニティが
秩序を保つためにはある程度の個人情報が必要だと思う。
一方、他人の個人情報を自由に収集したり使用して良いだろうか?
収集は自由と言えば自由だと思うが、それでもやはり収集されればそれは別の形で利用される可能性があるのだから、原則的には収集について本人が知る事ができる状態にする事が必要だと思う。
利用については、原則的には本人の同意を得て利用する事が望ましい。
それがある程度匿名化を行い個人を特定できなくしたデータとしてもである。

なぜインターネットをするか

単にそれが楽しいからという事もあるが、インターネットが民主的なツールであり、
それが広まる事が社会をフラットにし、民主化を進める事に繋がると考えているからでもある。

パソコンや、スマートフォンにしても、それらが世界に普及する事で、
機会の格差を減らし、世界をフラット化させるからである。

もちろん、インターネットやテクノロジーの進化=民主化ではないので、
テクノロジーに目的や哲学を持たせ、それらが正しい方向に使われるようにしなければいけないのだが。

心地よいつながり、居心地の悪いSNS

先日散髪に行ったとき、床屋さんがFacbookで、昔の同級生から友達申請がきて、
許可したくないのに間違って許可しちゃって…。という話を聞いた。
その後ふと、居心地の良いSNSと居心地の悪いSNSについて思いついたので書いておく。
人間関係に基づく居心地の悪いSNS
既存のリアルな世界では、自分の選択に関わらず、親や兄弟親戚がいて、育てられる、
そのうち教師や、同級生、上司がいて、同僚がいる。
我々は人間関係に基づくつながりを運命的に受け入れていて、それに適応している。
だから、この人間関係に基づくつながりのすべてが不快なわけではない。
ただ、自分の関心に関係なく、一方的な結びつきというのは、窮屈なものである場合が多い。
関心や、共感に基づく心地良いつながり
年齢、性別、風貌、地域、など物理的な境界に閉じ込められたつながりではなく、
単に関心や共感にひもづけられたつながりは、そこで定義されたクラスタの中でコミュニケーション
している限り、およそ、ここちのよい場所だと思う。
逆にリアルの人間関係では、自然とつながりが消えるけどSNSでは特に関心もつながりもないのに、SNS上で友達としてつながり続けている事が少なくない。
時が経てば、人の関心は別のものに移ったりするものだ。
SNSは一つあれば良い、mixi一人勝ちとも言われていたのに、なぜ廃れたかといえば、時間の経過とともにその場所が、居心地の悪いものになっていったからだろう。
居心地の良いSNSからみると、リアルの世界は、何とも不条理で、居心地の悪いつながりに満ちている。
ネットは理想的な世界を構築する為に進化していて、多くの人に夢と希望をもたらすものだ。
そんなことを言うと、現実逃避のひきこもりみたいな感じなので、付け加えておくと、
インターネットやモバイルデバイスを通じて開かれてきた、新しいつながりは、まだまだ
はじまったばかり。これらが、これからの世界にどのような影響をおよぼすかは計り知れない。

近所の電器店

急遽、光デジタルオーディオケーブルが欲しくなったので、近所の電気屋を何件かあたっててみるも、
お休み&店頭扱い無しという状態。
今時、光デジタルオーディオケーブルなど使うケースはほとんどないので、なくても仕方ないのかも
しれないが、これじゃあ、ネットの家電店や、コンビニに商機を奪われても仕方ない部分もある。
私の住む地域には、数件の電器店がある。
全部が年中無休というのは難しいだろうが、どれか数店が開いていて、どちらかに目当ての家電があれば
よいという事になる。
それを実現する為には、距離の近い電器店同士で在庫管理情報を共有し、
たまに売れる程度の頻度の少ない商品を、分散して確保する必要があると思う。
別にこれをコンビニがやっても良いと思う。
今や都心では、数十メートル行けば別のコンビニがある。
売れる頻度が少ない商品であっても、生活者がそれがどこにあるかわかれば、
もうちょっと先のコンビニに寄ればよいのだ。
商店街もそうだが、ネットや、大型スーパーと地域の小さな店が勝る部分は、とにかく近い事が一つだと思う。
欲しいと思ったら、数十分で提供できないと、そっちに流れてしまう。
話をまとめると
・コンビニを含め小さな店舗では、需要の多い商品だけに集中し、たまに欲しい商品が
近所ですぐに買えない場合がある。
・一店舗単位で考えず、地域内の複数の店舗の中で少しだけマイナーな商品在庫を持つ
・どこの店舗にあるか分からないと意味がないので、少なくとも店内に検索端末を置く。
できれば、スマフォやネットで検索できるといい。

インターネットテレビ アゲイン

テレビは、次は3Dだとか言ってるが本当は、電波による放送なんかさっさとやめて、インターネットテレビにシフトさせるべきなんだと思う。
テレビは見たいときに見れるようにすべきだ。
でも現在それを実現しようとすると、チューナーを複数搭載して力技で全チャンネル録画をしようという事になってしまう。これは馬鹿げている。
そもそも生じゃない番組をなんで全国同時に放送してみんなリアルタイムで見るのか意味不明だ。
見たい時間に見れればいいじゃないか。
それに映像にもっと付加情報がついててもいいはずだ。ニコニコ動画じゃないが、コメント欄があったり、関連情報から直接amazonに行って商品が買えてもいいはずだ。
CS放送にしても録画機とテレビ両方で視聴ライセンスが必要なんておかしい。
家電メーカーは今でもテレビを作ろうとしているが、パソコンメーカーは、パソコンでテレビを作ろうとしている。
そうするとケータイ電話と同じような事がおこる。
パソコンメーカーは家電メーカーが苦労して追加してきた機能を、パソコン文化の発想でそれを意図も簡単に実装してしまうのだ。
その結果家電メーカの製品が淘汰されてしまう。
音楽業界に起こった変化はテレビにもやってくる。
CDが売れなくなり、少数のアーティストが爆発的に売れる時代ではなくなり、レーベルの収益が減るという流れ。
いままで音楽を独占し、その利権で潤ってきた音楽レーベルに、インターネットが変化をもたらしたのだ。
出版も、テレビ業界もいずれはそうなる。
テレビ局は今すぐネット時代のテレビ番組のあり方をすぐに考え直すべきだ。
(たぶんソニーはわかっているのだろうが。)
家電メーカーは、パソコンベースでテレビを作るべきだ。パソコンベースでテレビの再定義が必要だ。
生活者は、テレビ利権による社会のゆがみを理解し、テレビの見方を変えるべきだ。
過去に囚われ続ける、テレビ局、家電メーカー、消費者は淘汰されるべき対象なのである。

ゲームの有料アイテム

最近ゲーム内での有料アイテムが増えてきたような気がする。
ゲーム自体は無料だけれど、有料のアイテムがあるというパターンだ。
ある意味えげつないとも言えるが、無料でゲームに参加できるという点ではよい。
バーチャルな部分とリアルな部分の境界があいまいになってきているという部分でも興味深い。
一つ問題なのは、子供がよくわからずゲーム内の有料アイテムを購入してしまう事は問題だと思う。
これには、なんらかのガイドラインも必要だと思う。
少し前だとセカンドライフか、最近ではmixiのサンシャイン牧場など。
リアルを巻き込んだゲームが広まりつつある。
あまりゲームには詳しくないしいわゆるオンラインゲームもほとんどやったことないので、
いまさらなのかもしれないが、ゲームとリアルの連携って面白いなと最近思う。

インストールソフト

VAIO VPCW119XJを買ってインストールしたソフトのメモ
・Becky  メールソフト(有料)
・ノートンアンチウイルス(有料)
・FFFTP
・WinSCP
・Terapad
・さくらエディタ
・OpenOffice
・Safari
・firefox
・Lhaca+
・iTunes
・ObjectDoc
こんな感じ。