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死刑という人殺しを認める制度

死刑撤廃は、現在国際的な流れであり、国際的流れに逆らって、今後もこのシステムを継続させる必要性がどの程度あるかどうかは、検討の余地があると思う。
現に死刑制度があっても執行が行われず、死刑囚だけ増えているという事がこのシステムの問題を表している。
死刑制度はこうあるべきだというのを先に言ってしまうと
1)まず死刑を公開すべき
2)希望があれば死刑の執行を遺族にて行えるようにする
3)終身刑を導入すべき
4)死刑は減らすべき
である。
まず、死刑はなんのためにあるかというと、犯罪の抑止効果をあげる人もいるだろうが、実際抑止効果はないという。
まあ捕まる事を前提に犯罪をする人は少ないだろうというのは予想に容易い。
じゃあなんの為にあるのかというと、遺族の心情によるものだと思う。
でも遺族のために行う死刑なのに、非公開というのはおかしい、希望があれば遺族が執行すべきである。
社会にとっての死刑制度はどうだろうか?
社会からしてみると、そもそも凶悪犯罪を減らす事が大前提であって、死刑が犯罪を抑制する物でないなら意味が無い。少なくとも現在の様に死刑が公開されないのでは、インパクトも弱いだろう。
そもそも、死刑がどのようなものかを民衆が理解していないところで、死刑が良いか悪いか判断する事自体がおかしい。
冤罪の問題もあるし、人殺しは駄目だという社会が、人殺しをするのはおかしい。
逆に言えば、死刑というのは社会が人殺しを認めてしまう制度の事である。
少なくとも、安易な死刑執行が許容される社会というのは命の価値が希薄であり、それはすなわち安易に殺人が行われる社会だと思う。
社会としては、そもそも犯罪を減らす事が重要である。
現状結構重い罪であっても、最長30年となってしまう、つまり、死刑と懲役の中間となるべき罪人が、それぞれの中に含まれているはずである。
終身刑というのがかならずしも、死刑との中間にあるものとは限らないが、罰は、相応の罰であるべきであって、それ以上でもそれ以下でもあるべきではない。

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