世界は海と、空と、通信回線でつながっていて、物流、経済、文化など、様々なものが国境を越えて勢いよく流れ込んでくる。
多様性や、変化を受け入れた先に新しい未来があると信じている。
ただ、地球上のあらゆるものが、均質化されてしまうのは問題だ。
もっともそんなことは、普通おこらないと思うが、ある部分では進行している問題ではあると思う。
地域性、独自性の消失は、変化への適応力の低下を招く。
グローバル経済によって、ギリシャ問題が世界経済に波紋を広げたように、
世界が、広く結びついていることは、強さでもあり弱さでもある。
そこで必要なのが、独立性である。
世界で大きな津波が発生しても、そこは影響を受けない独立したエリアが必要である。
単純に鎖国していれば、世界の影響は受けない。
でもそれはちいさな水たまりのようなもので、放っておくと自然と蒸発して消えてしまったり、
いったん大きな波がおしよせれば、飲み込まれてしまう事さえある。
世界と常に繋がりながらも、すべてをそこに依存させずに、
独自性を守る事や、地域での独立体制を維持する事。
これは、実際の所どうすれば良いのかは難しい問題だが、
あるべき論としてメモしておく。
投稿者: tsubute
急遽、光デジタルオーディオケーブルが欲しくなったので、近所の電気屋を何件かあたっててみるも、
お休み&店頭扱い無しという状態。
今時、光デジタルオーディオケーブルなど使うケースはほとんどないので、なくても仕方ないのかも
しれないが、これじゃあ、ネットの家電店や、コンビニに商機を奪われても仕方ない部分もある。
私の住む地域には、数件の電器店がある。
全部が年中無休というのは難しいだろうが、どれか数店が開いていて、どちらかに目当ての家電があれば
よいという事になる。
それを実現する為には、距離の近い電器店同士で在庫管理情報を共有し、
たまに売れる程度の頻度の少ない商品を、分散して確保する必要があると思う。
別にこれをコンビニがやっても良いと思う。
今や都心では、数十メートル行けば別のコンビニがある。
売れる頻度が少ない商品であっても、生活者がそれがどこにあるかわかれば、
もうちょっと先のコンビニに寄ればよいのだ。
商店街もそうだが、ネットや、大型スーパーと地域の小さな店が勝る部分は、とにかく近い事が一つだと思う。
欲しいと思ったら、数十分で提供できないと、そっちに流れてしまう。
話をまとめると
・コンビニを含め小さな店舗では、需要の多い商品だけに集中し、たまに欲しい商品が
近所ですぐに買えない場合がある。
・一店舗単位で考えず、地域内の複数の店舗の中で少しだけマイナーな商品在庫を持つ
・どこの店舗にあるか分からないと意味がないので、少なくとも店内に検索端末を置く。
できれば、スマフォやネットで検索できるといい。
んまあ、あれ面白いそうだから日本でもやろうぜ的な軽いのりが、思いのほか非難を浴びて中止という事なんだろう。
たしかに、食べ物を粗末にしてはいけない。
とはいうものの、世界の中で、日本は食べ物の廃棄率でトップレベルだったはずだ。
というわけで今回は、食べ物は捨てていいのかという話と。
食べ物は駄目だけど、飲み物はよいのか?
という話。
まず、脱線先である飲み物はよいのか?という話。
飲み物として代表的な水。
水道をひねれば、そのまま飲める我が国ではさほどありがたくもないかもしれないが、
「水道水が飲める国は13か国」とかいう話もあり、人が生きていく上でも重要な
要素である水は重要な存在である。
ただ、水って生き物じゃなよね。
という反論はあろうかと思う。
たしかにそうだ、水は資源であって、生き物ではない。
じゃあ牛乳祭りとして、牛乳をかけあう催しはどうだろう?
牛乳は本来、牛の子供が育つ為にあるものだ。
それを人が飲む為に品種改良してできたのが、ホルスタイン 乳牛 であり、市販の牛乳だ。
愛媛で、町おこしとして、ポンジュース祭りを催し
ぽんジュースをかけあう催しならどうだろう?
ビールかけはどうだろう?
ビールかけは、「資源を浪費する無益な行為」とか批判はあり、
ビールかけ用ビールがあったりするようだが、まあ祭りというのは、そもそもそういうもんだと思う。
理由づけはともかく、無駄遣いをしたり、普段しない事をやって、ハッピーを共有するってのが
祭りなんじゃないだろうか。
何が楽しいかは人それぞれだし、そもそもトマト祭りが本当に楽しいかどうかも謎だが、
世界のどこかでそんな事をして楽しむ人たちがいても、別にいいんじゃないかとは思う。
で、話はもどって。
食べ物の廃棄率が高い日本の現状について。
まず誰がどこで食べ物を捨てているのだろうか?
・飲食店での食べ残し (消費者)
・家庭内での食べ残し (消費者)
・コンビニ、スーパーなどでの売れ残り (消費者、小売業者)
・生産時点での廃棄(生産者)
・加工時点での廃棄(加工業者、飲食店)
・流通時点での、品質問題(流通・消費者)
など、おもいつくところ。
飲食店での食べ残しは、日本一うまいとかいって激マズだったり、
かならずしも消費者がすべて悪いとは限らないが、多くの場合は消費者の問題だと思う。
家庭内での食べ残しも同様だ。
計画的に消費する事が重要。
コンビニ、スーパーでの売れ残りはどうだろう?
理論上は消費される量を生産すればそれで足りるが、実際にはそうはならない。
消費者は、豊富な選択肢から商品を選んで買う事を好むので、消費を予想して生産する事はなかなか難しいのだ。
つまり、消費者に買ってもらう為にはあらかじめゴミとなるものも提供しておく事が必要なのだ。
これはフードチェーンにおけるかなり難しい問題だ。
理論上は、消費者が、前もって消費するものを決めておきそれを生産者に伝え、正確に生産し、消費者が正確に無駄無く消費できれば、よいのだろうが、これはなかなか難しそうだ。
生産時点での廃棄とは、
台風でリンゴが落ちて、商品にならないから廃棄とか災害的なものや、生産過剰により売れないので廃棄とか、味や鮮度には問題ないが、見た目や流通上の都合で規格外のものを廃棄などの問題がある。
消費者は、食料の上流を知ることで、過剰な品質要求による廃棄を減らすのも大事だと思う。
加工時点での廃棄問題は、減らせれば加工業者も得なのでそれなりに取り組まれているのだろう。
無駄無く利用する事が大切である。
流通での廃棄とは、流通経路で適切な管理が行われなかった場合に、ゴミとなってしまうケース。
つぶれたり、輸送に時間がかかり賞味期限が切れたり、鮮度管理上の問題などもある。
ではまとめ。
食べ物を粗末にしてはいけない。
というわけで、とりあえず、毎日大量日破棄される賞味期限切れの食品でも集めて、
まみれてみる 食料廃棄大国祭り でもやったらいいんじゃないだろうか?
生ゴミだから、あとはバイオ肥料にでもすればよしと。
お金とはなにか。
そもそもは、価値を、仮想化、モバイル化することによって、商品や労働を、
物々交換ではなく、数字で解決させる手段としてできたものだと思う。
様々な商品やサービスがお金に変換できるようになり、様々な商品やサービスを、
得られるようにするにはお金をたくさん持っていればいいという、単純な構図ができた。
そして、資本主義はこれを一気に加速させた。
お金を得る為にすることの代表的な事として、仕事というのがある。
現状、この世界では、生きていくのにはお金が必要で、お金を得る為には働く必要がある。
というのがありふれた事柄である。
私が思うに、生きる為に、「お金が必要」「働く事が必要」というのは、すべてそうだと思わないし、
特に未来を考える上ではむしろそうでないケースが増える事が望ましと思う。
生存するために必要最低限な衣食住に関しては、お金がなくても提供されるべきだし、
働かなくても提供されるべきだと思う。
人は皆産まれながらにして働ける訳でもないし、老いれば労働生産性が下がる場合も多々ある。
現状、地球上で権利を主張できるのは人間だけなので、少なくとも人間であれば、できるだけ平等に地球の
資源を利用する権利が得られるべきだし、それとともに地球上の資源をできるかぎり次世代に残す義務があると思う。
理想を言えば、「生きる権利保障機構」を世界中につくり、人が生まれてから死ぬまで、生きる為に
最低限必要なモノはその機構が提供する。
これにより、「お金」という要素から「生きる為に必要なもの」という要素を排除する。
また、お金に色が無いのも問題だと思う。
よい事をして得た1万円も、悪い事をして得た1万円も同じ。
社会で考えたら、よい事をして得たお金が増えれば増えるほど世の中はよくなるはずだが、
逆に悪い事ををして得たお金が増えたら世の中は悪くなる。
お金は何にでも使えるという事が便利ではあるが、
よい事に使われるべきであって、お金の未来としてそこは検討すべき課題だと思う。
おまけ:通貨統合
基本的には共通通貨を導入すべきだと思う。
理由は単純に、地域によって通貨が異なると不便なのと、通貨が日々変動すると、国をまたいだ商業に不要なリスクがかかるからである。
もっとも、通貨統合をいいことに、不健全な財政を放置するような国に、共通通貨による支援を与える
必要はないと思うが、基本的には各国協力して、不要な障壁は取り除くべきだと思う。
・壁や床がディスプレイに
現在液晶の低価格化が進んでいる。
おそらくこのまま低価格化や、薄型、大型化が進めば、壁掛けテレビではなく、
壁や床自体がテレビ(ディスプレイ)になるのは時間の問題だと思う。
・どこでもオンライン
グーグルメガネのように、スマートフォンはさらに進化する。
手で操作するものから、手で操作せずに音声やその他の方法で操作したり、受動的に情報が提供されるようになる。
モバイルは持ち運ぶコンピューターというより、身につけるものとなるだろう。
場合によっては、環境の一部としてwebサービスが提供され、身につける必要すらない場合もあるだろう。
・ロボットと生活
ロボットの社会進出が進み、街で動くロボットを見かけるようになる。
・道路
自動運転の自動車が走行するようになる。
・物流
物流が自動運転ロボットによって自動化される。
つまり商品などの発送からはじまり、家のポストや宅配ボックスまでが、全自動化される。
・仕事
多くのロボット進出により、既存の仕事の多くが減少する。
ファーストフード店や、コンビニ、運送業などは特に大きく影響を受けるだろう。
これはほぼ決まった未来の事である、いまのうちに考慮しておく必要がある。
正直言ってその頃の記憶はあまり確かではないが、
当時はテロという言葉が一般的ではなかったように思う。
いまでこそあれは無差別テロであり、
ようやく最近捕まった指名手配の容疑者らは、テロリストなんだと認識できるが、当時は、9.11より前の話だ。
もし9.11以降に起きていれば「地下鉄サリン事件」ではなく「地下鉄サリンテロ事件」と呼ばれていただろう。
最近のNHKの特番などによると、オウム麻原がかなり早い段階で社会に対しテロを仕掛ける事を構想してたと言う。
今改めて思うのは、
日本という平和ぼけな国で、テロが計画され実行され、実際多くの犠牲者が出たという事実は風化させてはならないと思う。
「働かないアリに意義がある」という本をよみ、そこでクローンを作るアリの話を読み、
人類や、生命体、知的非生命体の未来を考える。
我々や多くの生命がこれまで完全複製ではなく、遺伝子的に揺らぎのある交配によって進化してきた。
なぜクローンではだめだったのか。
多様性が、環境への適応をもたらし、結果として系列の種の保存や、同種の拡大につながってきたのだと思う。
つまり、逆に言えばクローンでは環境の変化に適応できず、生き残るのが難しいという事である。
そこで思うのが、では重要なのは、
1.自身を長生きさせる事
2.自己の複製をより多く、より長期にわたって存在させる事
3.自己+αな存在をより多く、より長期にわたって存在させる事
なのだろうか?
もしそうだとするなら、遺伝子的に近い存在を優先的に大事にする事になるだろう。
実際に生き物や、動物の本能として、その傾向はある。
だがしかし、人間というのは単に分子の集まり、細胞の固まりではなく、思想や哲学を持って生きている。
だから単純に遺伝的に近ければなんでもOKというわけにはいかない。
1.自己の思想を長く生きさせる事
2.自己の思想をより多く、より長期にわたって存在させる事
3.自己の思想+αな思想をより多く、より長期にわたって存在させる事
こういう考え方もできるかと思う。
このように我々は、自己の複製を理想としつつも、環境の変化の中でそれを行うために、
多様性という犠牲によって、自己を保存しようとしている。
でも、そもそも自己というのは複製すべき存在なのであろうか?
これは難しい問題だ。
生命の進化の過程でそれ(種の保存)を選ぶのは他者であり、環境であり
偶然性でもある。
種に正解はない。
個人的に自己のクローンは必要なのかと考えると、可能ならあってもいいと思う。
自己+α これは必ずしも子孫ではなく、家族などを含む系統という事になるが、
自分の場合は遺伝子的類似度より、思想的な共通性が重要だと思う。
もちろん、思想的な観点でも、共通点が多ければよい訳ではなく、
自己の思想+αな思想をより多く、より長期にわたって存在させるためには、
別の種の思想との交配も必要なのかもしれない。
そこで話は一気に飛躍して、冒頭の「知的非生命体」に戻る訳だが、
いずれロボットは、ロボット自体が複製を行うという、人工でも生命でもない、
人工生命のような存在が登場するだろう。
ハードウェア的に人類とは異なるそれらが、どのような発想や、倫理観を持つかは全くわからないが、
いずれ、宇宙の隅まで知的な存在が進出するだろう。
そして、「この宇宙がなくなるまでにはあたらしい宇宙を作りそこへ新しい知的存在を送り届ける」という役割は、いずれ彼らに受け継がれるだろう。
一方で、人類が存在する以降の生命が、現在でも不要ではないように、人類の存在はしばらく持続するだろうし、そうでなければならないと思う。
それは物質的な面からもある程度はそうだろうし、思想的にも彼らに受け継がれるべきだと思う。
何いっているかよくわからないと思うので簡単にまとめると
・人類はいずれロボットに次の知的存在の進化を引き継ぐ時がやってくる
・人類の思想は、彼らに受け継ぐべき
・この宇宙に誕生した知的存在の使命はこの宇宙がなくなるまえに新しい宇宙を作る事
という話でした。
先日、端島(はしま)に行って来た。
【交通】
東京からは、羽田-長崎空港を飛行機。
長崎空港から、長崎駅まではバス(高速バス)、
長崎駅から長崎港までは路面電車、
長崎港から端島まではツアー船で行った。
【宿泊】
軍艦島だけなら、日帰りでも行けると思うが、せっかく行ったのに天候不順で船がでない事もありえるので、
その場合は翌日に行こうと思い、長崎駅近くのビジネスホテルに1泊にした。
【軍艦島(端島)】
「元々は、南北約320メートル、東西約120メートル」(Wikipedia)の島だった。
炭鉱の開発により、埋め立てにより広げられ、コンクリートのアパートが建設され、多いときは島に5000人を超える人々が住んでいて、今から30年少し前に閉鎖された、現在は無人の島である。
天気もまあまあよく、波も静か、無事軍艦島に着く。
岸壁はコンクリートで固められていて島全体がちょっとした要塞のような感じだ。
陸に上がって、見学できる箇所はごく一部で、くずれかけの建物に入ったり、あまり近づけないのだが、
建物の多くが風化しているのがわかる。
30年と考えると、それほど長い歳月でもないが、雨風や、一部は波にさらされる事や、建築の問題で、
崩壊が進んでいるようだ。
建物の窓からは、植物が見えたりして、
無人となった建物にひっそり息づく植物の存在は、美しい。
廃墟と言えば、数年前に行ったカンボジアも
廃墟と言えば廃墟である。
カンボジアの場合は、寺院であったものが、自然倒壊したものや、
戦争により破壊されたものなどが見られる。
個人的に好きなのは、人工物が、長い時間をかけ、雨風により自然倒壊し、
尚かつ植物などが、新たな住人となっている姿。
(なので人工的に倒壊したものは、あまり関心が無い。)
簡単に言えば、盛者必衰、諸行無常 後の世界といったところであろうか。
長崎の平和公園にて平和とは何か、原爆とは何かを考える。
人もまばらな平和公園。
平和公園で一番衝撃的だったのは、中央の噴水(平和の泉)である。
原爆の熱線によってやけどを負った多くの被爆者が水を求めて死んでいった。
こうして今はとうとうと水が流れている。
1945年8月9日11時02分 長崎に原爆が投下。
長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没とされる。
(Wikipedia参照)
たしかにその後太平洋戦争は終った。
だが戦争の終結に2発もの原爆が必要だったかは、大いなる疑問だ。
100歩譲っても、長崎への原爆投下は人体実験という要素が大きかっただろう。
その後原発は、今に至るまで数多く生産され、
現在も、米国、ロシアを中心に数千発の核弾頭が存在する。
原爆とは短時間に大量無差別に人々を焼き殺す為の兵器である。
それがこれだけの数必要とされているというのは、異常だと思う。
核兵器が減ればそれで解決という事でもなく、根本的には、戦争の問題だが、
それでも核の拡散は防ぐべきだ。
それとともに一段階掘り下げ、戦争に至るまでの環境、社会の問題を考えていく必要があるだろう。
世界には数多くの戦争の火種が存在し、一度(ひとたび)始まれば、終結は容易ではなく、
そしてまた多くの犠牲を伴う。