正直言ってその頃の記憶はあまり確かではないが、
当時はテロという言葉が一般的ではなかったように思う。
いまでこそあれは無差別テロであり、
ようやく最近捕まった指名手配の容疑者らは、テロリストなんだと認識できるが、当時は、9.11より前の話だ。
もし9.11以降に起きていれば「地下鉄サリン事件」ではなく「地下鉄サリンテロ事件」と呼ばれていただろう。
最近のNHKの特番などによると、オウム麻原がかなり早い段階で社会に対しテロを仕掛ける事を構想してたと言う。
今改めて思うのは、
日本という平和ぼけな国で、テロが計画され実行され、実際多くの犠牲者が出たという事実は風化させてはならないと思う。
投稿者: tsubute
「働かないアリに意義がある」という本をよみ、そこでクローンを作るアリの話を読み、
人類や、生命体、知的非生命体の未来を考える。
我々や多くの生命がこれまで完全複製ではなく、遺伝子的に揺らぎのある交配によって進化してきた。
なぜクローンではだめだったのか。
多様性が、環境への適応をもたらし、結果として系列の種の保存や、同種の拡大につながってきたのだと思う。
つまり、逆に言えばクローンでは環境の変化に適応できず、生き残るのが難しいという事である。
そこで思うのが、では重要なのは、
1.自身を長生きさせる事
2.自己の複製をより多く、より長期にわたって存在させる事
3.自己+αな存在をより多く、より長期にわたって存在させる事
なのだろうか?
もしそうだとするなら、遺伝子的に近い存在を優先的に大事にする事になるだろう。
実際に生き物や、動物の本能として、その傾向はある。
だがしかし、人間というのは単に分子の集まり、細胞の固まりではなく、思想や哲学を持って生きている。
だから単純に遺伝的に近ければなんでもOKというわけにはいかない。
1.自己の思想を長く生きさせる事
2.自己の思想をより多く、より長期にわたって存在させる事
3.自己の思想+αな思想をより多く、より長期にわたって存在させる事
こういう考え方もできるかと思う。
このように我々は、自己の複製を理想としつつも、環境の変化の中でそれを行うために、
多様性という犠牲によって、自己を保存しようとしている。
でも、そもそも自己というのは複製すべき存在なのであろうか?
これは難しい問題だ。
生命の進化の過程でそれ(種の保存)を選ぶのは他者であり、環境であり
偶然性でもある。
種に正解はない。
個人的に自己のクローンは必要なのかと考えると、可能ならあってもいいと思う。
自己+α これは必ずしも子孫ではなく、家族などを含む系統という事になるが、
自分の場合は遺伝子的類似度より、思想的な共通性が重要だと思う。
もちろん、思想的な観点でも、共通点が多ければよい訳ではなく、
自己の思想+αな思想をより多く、より長期にわたって存在させるためには、
別の種の思想との交配も必要なのかもしれない。
そこで話は一気に飛躍して、冒頭の「知的非生命体」に戻る訳だが、
いずれロボットは、ロボット自体が複製を行うという、人工でも生命でもない、
人工生命のような存在が登場するだろう。
ハードウェア的に人類とは異なるそれらが、どのような発想や、倫理観を持つかは全くわからないが、
いずれ、宇宙の隅まで知的な存在が進出するだろう。
そして、「この宇宙がなくなるまでにはあたらしい宇宙を作りそこへ新しい知的存在を送り届ける」という役割は、いずれ彼らに受け継がれるだろう。
一方で、人類が存在する以降の生命が、現在でも不要ではないように、人類の存在はしばらく持続するだろうし、そうでなければならないと思う。
それは物質的な面からもある程度はそうだろうし、思想的にも彼らに受け継がれるべきだと思う。
何いっているかよくわからないと思うので簡単にまとめると
・人類はいずれロボットに次の知的存在の進化を引き継ぐ時がやってくる
・人類の思想は、彼らに受け継ぐべき
・この宇宙に誕生した知的存在の使命はこの宇宙がなくなるまえに新しい宇宙を作る事
という話でした。
先日、端島(はしま)に行って来た。
【交通】
東京からは、羽田-長崎空港を飛行機。
長崎空港から、長崎駅まではバス(高速バス)、
長崎駅から長崎港までは路面電車、
長崎港から端島まではツアー船で行った。
【宿泊】
軍艦島だけなら、日帰りでも行けると思うが、せっかく行ったのに天候不順で船がでない事もありえるので、
その場合は翌日に行こうと思い、長崎駅近くのビジネスホテルに1泊にした。
【軍艦島(端島)】
「元々は、南北約320メートル、東西約120メートル」(Wikipedia)の島だった。
炭鉱の開発により、埋め立てにより広げられ、コンクリートのアパートが建設され、多いときは島に5000人を超える人々が住んでいて、今から30年少し前に閉鎖された、現在は無人の島である。
天気もまあまあよく、波も静か、無事軍艦島に着く。
岸壁はコンクリートで固められていて島全体がちょっとした要塞のような感じだ。
陸に上がって、見学できる箇所はごく一部で、くずれかけの建物に入ったり、あまり近づけないのだが、
建物の多くが風化しているのがわかる。
30年と考えると、それほど長い歳月でもないが、雨風や、一部は波にさらされる事や、建築の問題で、
崩壊が進んでいるようだ。
建物の窓からは、植物が見えたりして、
無人となった建物にひっそり息づく植物の存在は、美しい。
廃墟と言えば、数年前に行ったカンボジアも
廃墟と言えば廃墟である。
カンボジアの場合は、寺院であったものが、自然倒壊したものや、
戦争により破壊されたものなどが見られる。
個人的に好きなのは、人工物が、長い時間をかけ、雨風により自然倒壊し、
尚かつ植物などが、新たな住人となっている姿。
(なので人工的に倒壊したものは、あまり関心が無い。)
簡単に言えば、盛者必衰、諸行無常 後の世界といったところであろうか。
長崎の平和公園にて平和とは何か、原爆とは何かを考える。
人もまばらな平和公園。
平和公園で一番衝撃的だったのは、中央の噴水(平和の泉)である。
原爆の熱線によってやけどを負った多くの被爆者が水を求めて死んでいった。
こうして今はとうとうと水が流れている。
1945年8月9日11時02分 長崎に原爆が投下。
長崎市の人口24万人(推定)のうち約14万9千人が死没とされる。
(Wikipedia参照)
たしかにその後太平洋戦争は終った。
だが戦争の終結に2発もの原爆が必要だったかは、大いなる疑問だ。
100歩譲っても、長崎への原爆投下は人体実験という要素が大きかっただろう。
その後原発は、今に至るまで数多く生産され、
現在も、米国、ロシアを中心に数千発の核弾頭が存在する。
原爆とは短時間に大量無差別に人々を焼き殺す為の兵器である。
それがこれだけの数必要とされているというのは、異常だと思う。
核兵器が減ればそれで解決という事でもなく、根本的には、戦争の問題だが、
それでも核の拡散は防ぐべきだ。
それとともに一段階掘り下げ、戦争に至るまでの環境、社会の問題を考えていく必要があるだろう。
世界には数多くの戦争の火種が存在し、一度(ひとたび)始まれば、終結は容易ではなく、
そしてまた多くの犠牲を伴う。
先日長崎に旅行。
初めて国内線の飛行機に乗る。
見下ろす景色の中で思ったのは、
緑の山々について。
山が緑なのは、普通と言えば普通だけど、
それらが、単に緑色で塗りつぶされているわけではなく、
木々の凹凸が見え、それぞれの多数の生命によって構成されている事に
不思議な感覚を得た。
都会にいると、周りの多くは人々が住む建物ばかりで、
それは一見どこまでも続いているように見える。
だが飛行機で上空から見てみると、建物の見えない山々が続いていた。
そして、無数の樹木(生命体)が山々を覆っている様子は、
我々人間が築いてきた人工物の痕跡とは対照的に思えた。
他でも書いたが、Google Glassは単に
・スマートフォンをハンズフリーで使うためのもの
・ARを使った表示
という表面的な機能の目新しさより、社会的な影響を及ぼすかもしれないという事を、ここに書き記しておきたいと思う。
・人々のGoogleロボット化
現在Googleはインターネット上のあらゆるサイトをクローリングし情報を集め、検索結果を提供している。
そしてネットだけでなくストリートビューのように、リアルの世界も撮影機材を使ってクロールしている。
現在この作業は人の手によって行われているが、いずれはロボットが自動的に巡回撮影を行うようになるだろう。
それに加え、グーグルメガネを普及させたらどうだろう?
そこから収集できるデータを活用できれば、広範囲に細かくリアルの世界をクロールできる。
最も、Androidケータイがそうであるように、当面Googleが端末から、情報を収集する事はないだろう。
ただ、それが技術的には可能で、それを行う事で巨大な、ビッグデータを得る事ができ、おそらくそれはなんらかの価値を生み出す事が推測できる。
・監視社会(歩く防犯カメラ)
カメラ付きケータイやTwitterの普及は、事件が起こると撮影機材を持って、記者やカメラマンが向かい、それをマスメディアを通じ多くの人が情報を得るという、従来の情報の流れを変えつつある。
情報は瞬時に個人がネットに流し、それをネットメディア、マスメディアが拡散する。
録画や録音は現在の多くの人々にとって一時的な行為であるが、グーグルメガネが普及すれば、
それは、継続的に行われる可能性もある。
これにより今まで、見過ごされていた小さな問題も含めて、記録され、突如公開される可能性もある。
・ライフログ
自分が見たものを継続的に記録し、自動的にタグ付けされ容易に検索できるようになると、
トータルリコール(完全記憶)のような事が実現するかもしれない。
これは良い点もあるが悪い点もある。良い点は忘れなくなる事である。
悪い点は忘れなくなる事である。自分にとって不要な記録は削除すればいいわけだが、
他人にも同様に記録が残っているわけで、そこに不都合な記録が残り続ける事もありうる。
既に街は防犯カメラで溢れており、電子化された世界で、人々の活動は電子的に記録されている。
ただこれはまだほんの入り口である。
人々が好まざるとも、社会はあらゆるものを記録する方向へ向かうだろう。
たしかに始めは息苦しさを感じるかもしれなが、そのうち慣れるだろう。
そんなもんである。
もしそれがどうしても耐えられないなら、名前を捨て、社会を捨て、誰とも会わずひっそり森の奥深くで暮らす以外にそこから逃れる方法はない。
重要なのは人々が大きな心で現実を受け止める事である。
大きなフレームワークを作れば、多くの人々にとっては、別段不自由を感じない住み良い社会になるはずだ。
逆に、もし小さな嫉妬や、細かな規律で他人を縛ろうとするならば、人々はさなぎのように生きなくてはならなくなるだろう。
未だに安売り競争を続けている牛丼チェーンについて、ふと思う。
まず現在の背景として、
・牛丼3社、そろって売上高マイナス
・マクドナルド、12年12月期は経常2.9%増益へ [JQ]
・松屋、豪州産米を試験導入へ…原料費を圧縮
という事がある。
一言で言えば、安売り合戦をしている牛丼3社はもう限界だ。
本来であれば、マクドのように、新メニューを続々と投入し、高価格化、店舗整理をしなければならないが、牛丼チェーンは未だにその悪循環からぬけだせないでいる。
値下げをしないと、お店に人が集まらない。しかし一旦値下げをすると、再び値段をあげると客が減る。
そこでまた値下げをする。人件費を削り、強盗に入られたりもする。しかも出てくるのが遅いとクレーム。原料のコストを下げ、まずいと言われる。なんという悪循環。
これまで、牛丼各社、新メニューを投入して来たがそれでもなぜ単価を維持できないのか?
なぜ価格をあげられないのだろうか?
思うに、安価に空腹を満たすだけのニーズが多く存在しそこが固定化してしまったのではないだろうか?
新メニューとか、より良質なものを提供しても、それらを求めていないお客によって固定化されてしまい、いくらそういったものを出しても、収益アップに結びつかないのだ。
良い表現ではないが、端的に言えば、安価なエサが、ここの客の主たるニーズなのだ。
では安価なエサを供給し続ける為にはどうすればいいのか?
そこでひとつ提案したいのが自動牛丼販売店である。
まず販売機のボタンを押したら、紙カップのジュース販売機のような感じで、どんぶりがセットされて、ごはんがごぼっと落ちてくる。続いて具材、最後に汁がじょぼっとでて完成。
セルフで席に持って行き食べ終わったら、返却口へ。
もっとも、1日1、2回清掃や、具材の補給に人が作業を行う必要はあるだろうが、
基本的には無人店舗というコンセプトだ。
人件費削減、強盗対策を行い、材料も現状かそれ以下に安く押さえて200円てところでどうでしょうかね。
このままデフレがすすめば、更に安価なエサが求められる。
逆にインフレが進めば、牛丼は一杯500円1000円になるだろう。
明日の牛丼チェーンに求められているものは、無人牛丼販売店だと私は思う。
少し大げさに言えばこの国が、今後貧しくなっても、あちこちで暴動が起きない程度の社会を継続するには、
安価なエサを提供する事が非常に重要であり、それが牛丼チェーンのこれからの使命なのだ。
1.ロボットには敵(かな)わない
今あなたがしている仕事は、20年後も人間がやっているだろうか?
ロボットは人間より、正確に、早く、作業をこなす事ができる。
製造関連では、既に機械化の導入がすすんでいるが、物流においても、陸路や空路の自動化が進むだろうし。サービス産業へのロボット導入の流れもすすむだろう。
人が労働力を提供する事で賃金を得て、社会を構成するという生き方は、今後難しくなるかもしれないということを念頭においておくべきだと思う。
さらにすすめば、地球上の生態系において、ひとつ上の存在として人類が果たして来た役割は、ロボットに引き継がれ、ロボットとの管理下もしくは、共存関係の上で人類は生存していく事になるだろう。
ただこれはもう少し先の未来である。
2.他民族国家としての日本
ヨーロッパ諸国の、移民の推移を見てわかるように、民族の人口比率というのは、
時代とともに変化する。そしてそれらの移民は国に影響力をもつようになる。
日本も例外ではないだろう。比較的良質なライフラインさえあれば、世界で増え続ける人々の流れがそこに集まるのは必然である。
文明から離れ閉ざされた国として、強力な独裁政権でも誕生すれば話は別かもしれないが、
今後100年、200年先、日本が現在のようなほぼ単一の民族構成が続いているとは考えにくい。
3.常識は普遍ではない
我々は変化の時代に生きている。
世界がインターネットでつながり、フリー、オープンなものが増えるという変化は勿論。
そこで起きる変化は、時として意識に変化をもたらし、常識を覆す事がある。
それは地域や民族が長年続けて来た習慣をも変化させる。
それは、いまだに自動車は、空を飛んでおらず、ガソリンで走り、人を時々はねるからだ。
21世紀だというのに。
もっとも、高齢化とか、都市部では自動車以外の交通インフラの充実して、マイカーのニーズが減っている、あるいは多様化している。というのもあるだろう。
景気が良い時代は終了したとか、そういう理由もあるだろう。
ただ、都市部においては特に、自動車という比較的リスクの高い交通手段の他に代替手段があるのだから、
そちらが優先されても何の不思議も無い。
今後、自動車もしくは、自動車産業を発展させるためには、
単に安い自動車を作るだけでは駄目で、全自動運転機能とか、安全機能とか、小型化とか、エコとか、空を飛ぶとか。
それに伴う交通ルールや道路の整備などが必要なんだと思う。
まずはその前に昨年の予想を振り返る
—–2011年の予想より—–
【プチ贅沢】
これは震災の影響により、あっさり打ち砕かれた格好だ。
【種から芽が出る】
これもあんまピンと来ない感じでした。
【政治】
首相の交代は当たり。これは毎回当たるw
【携帯】
NFC対応機種はまだほとんどないし来年だな。LTEは予定の通り来年からだと思う。
【ポストiPad】
端末はたくさんでたが、まだまだiPadには及んでないというのが現状だと思う。
これも来年に期待したい。
電子書籍端末は予想通りまだだ。
総合すると、景気底打ちで少し明るい兆しがでるかと思いきや、震災を含め、予想のようにはならなかった。