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個人と共同体

1968年日本の国民総生産 (GNP) は世界第2位となった。
現在は第3位。今後これらはもっと下がっていくだろう。
動かしがたい要因としては、人口変動の影響が大きい。
それが意味する事は国全体としての力が諸外国に比べ相対的に低下するという事だと思う。
国が相対的に力を持つというのはどういう事だろう?
それは、世界に対し優位な条件を出す事ができ、その国に生まれたというだけでその恩恵を
得られるという事なのかもしれない。
単純に言えば、日本人人口を増やし、世界に対し優位な状態にできれば、
日本という共同体としては優位になれ、個人もその恩恵を得られるかもしれない。
しかし我々はそうではない未来を選択した。(おそらく)
移民の受け入れをどうするかをひとまず置いておくならば、
日本は、国の縮小という道を選択した事になる。
ただこれを悲観する必要は無いと思う。
そこで登場するのが一人当たりGDPである。
国全体のパイが縮小しても、一人当たりの生活が維持されていれば個人としては問題ないというわけである。
たしかに国が栄えていてその恩恵にあやかれるならそれはいいが、
普通にこの国の未来動向を考えるなら、そうではなく、個々の幸福度を向上させる事に
重きをおくべきだと思う。
そこで逆に、
お国のためとは何かについて考える。
戦時中のこの言葉を私なりに解釈すると、
場合によっては個人が犠牲となり国に奉仕する事が、家族や共同体にとって重要な時代だったのだと思う。
(その共同体が個人の犠牲を容認したのは、その共同体が別の共同体を選ぶ余地がなかったのもひとつの要因だと思う。)
一方現在はどうだろう。
ありがたいことに、昔に比べ、個人の犠牲を社会が要求する度合いは下がったと思う。
家族のため、地域のため、会社のためとか、国のためとか、に対し個人が犠牲を払う事は
美談としてはよいかもしれないが、そんな事が常態化しているような時代が良いかというとそうは思わない。
自分が良ければいいという、利己主義、個人主義には閉口するが、多くの個人の犠牲によってもたらされる豊かな社会というのも、また疑問である。
話はやや脱線したが、これからは運命的に関連づけられた共同体に献身する時代じゃなくて、
一人一人が所属する共同体を選んで、これが良いと思ったコミュニティや共同体を支持する事が、
良い共同体を育てることにつながると思うし、そうあるべきなんだと思う。

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