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カテゴリー: 思いつき

命の値段、自由の価値、選択の価値

高齢者の運転する自動車の事故に若者が巻き込まれたり、殺傷事件などのニュースをみると、制度を変えれば、ある程度抑制できるものもあるのになあと思う。

高齢者の運転に関しては、踏み間違い防止装置と、高齢者の免許改正、両方行えばある程度対応できるだろう。将来的には自動運転技術などで、事故防止なども進むだろうが、それまで放置すると、あと十年ぐらいはこんな状況を続けることになる。

殺傷事件に関しては、防犯カメラなどに、自動認識の機能をつけて、自動検出していくべきだと思う。

テクノロジーの発展により、誰でも簡単に、大きな事件を起こしやすい社会が実現しつつある中、理由はなんであれ、それに見合った武器や、防ぎょ策が社会になければ、社会は徐々に悪に支配されるだろう。

一方で自由とは、そもそもどうあるべきなのだろうか。
最も重要なのは生存権だと思う。

好きなことをして、誰からも文句を言われない自由というのはどうだろうか。
おそらく、そういう意味での自由というのは、共同社会には存在し難いものであり、共同社会における可動性というのは、個々の努力によって、徐々に確保すべきものなんだと思う。

命を尊重するためには、法制度を変える事が必要だが、法制度を変えるのは、議員などである。そういう意味で投票率の低い日本では、自由の価値、選択の価値を国民があまり理解できているとは言えない。

年金2000万円もそうだが、国民には本当に自由があり、自分の意思で考えて判断し、動いているだろうか。テレビや、スマホで流れてくる情報に操作されているのではないだろうか。

そいう点では、一人一人が社会の中で、地上に重力で固定された部品のような存在なのかもしれない。

もし個々が本当に物理的にも精神的にも自由あれば、空気の分子のように宇宙いっぱいに個々が駆け回るに違いないのだが、そうではない。

本当の自由を得るためには、自分で考える力と、推進力が必要である。
そうでないなら、社会の良き部品として、人生を全うすれば良い。

人生100年時代

最近時々耳にする、人生100年。
既に日本人口の1.6% が90歳以上、別の言い方をすると60人に1人が90歳以上ということである。
平均寿命は87.26歳、男性が81.09歳と、全員がそこまで生きるわけではないが、ともかく寿命は伸びている。

社会保障の問題もあるが、人生70歳ぐらいで考えている人は、今一度人生設計を見直してみたほうが良いと思う。
年金も貯金も必要だと思うが、数十年のスパンで考えると、あまりあてにはならない。
まず、年金制度で思うのは、次の世代に負担を回すのではなく、同世代間で負担すれば良いと思う。

金銭だけでなく、社会的にも、同年代での連携を増やして、仕事はしなくても、最低限の生活が継続できるように、協力すべきだと思う。
それができず、いつまで生きるかわからないから、必要以上に貯蓄が必要になったり、活動が制限されることになる。

寛容と排除

共同社会において、お互いの自由を尊重するためには、寛容さが必要である。
多少の不快は個性だと思って、許容するべきだろう。
その一方で、排除も重要である。
極端な話テロリズムを許容していては、容易に制圧されてしまうだろう。
何が正しいか、何が心地よいのかは、人により異なる。
良いと思うの、正しいと思うものを育て、広げるためには、排除も必要となる。
様々な民族や思想団体が存在する中で、
ある程度暮らしやすくする知恵のひとつがゾーニングである。
話があう者同士でコミュニティを形成し、それを地域で区分する。
そこらに生えている草木は、なんとなくそこに存在するのだろうか。
植物の世界では、日々、生存競争を繰り広げられている。
虫に食べられたり、環境の変化に適応しながら、そこでは多くの生命が戦っているのだ。
寛容さだけだが正しいのではなく、
正しくないものを見極めて排除する。
正しいもの、良いものを広めるために必要なこと。

10代で再考したい10の習慣

若い時に、これをやっっててよかったとか、これをやっとけばよかったなーというのがある。
そこで、10代だったら特に検討してほしい10の習慣を考えてみる。
・毎日繰り返す
継続は力なりというが、毎日の蓄積というのは何事においても大きいと感じる。
些細なことでもよいので、毎日同じ事を積み重ねられる習慣というのは、将来的にも役に立つ。
・本を読む
今はインターネットで検索というのもあるかもしれないが、本というある程度まとまった大きコンテンツを、
頭から最後まで、読んでいくというのは、重要な事だと思う。
とくに若いうちは薄く広く、あらゆるジャンルを、数多く読む方が良い。
・話を聞く
年をとると、あまり人の話をきかなくなる。
聞けるうちに聞いておくべし。
・フォローする
友人や、親の影響も小さくはないが、人生において身近ではない第三者から大きな影響を受ける事がある。
歴史上の人物だったり、ある分野の権威だったり、どっかの知らないおじさんでもよいが、
「この人はすごい」とか「この人面白い」という人を見つけて、その人が発信している情報を追跡する。
逆に、こういう人にはなっちゃいけないなという、反面教師(ダメ見本)的な人もある程度みつけておいても
よいかもしれない。
・自分を信じられる自分になること
重大な局面において、自分を信じる事が意外と難しかったりする。
・疑問を持つ、探す、調べる
疑問を持たないと、手や足や、脳というのは自分のためには働いてくれない。
・耐えること
石の上にも三年というように、無駄のようで耐えるとそれはそれで何かになったり、ならなかったりする。
若い頃の脳というのは前頭葉が発達途中にあり、耐えるのは苦手だったりするが、感情に振り回されない訓練も必要かと思う。
・他人(ヒト)と違うことを恐れない
無理に他人(ヒト)と違う事をする必要はないが、他人(たにん)の意見に流されていないか?
日和見主義は信頼されない。自分の頭で考え自分の判断を持つ習慣が大事。
その上で、これに関しては柔軟に対応して、他人に合わせようとかはOK。
・メモを取ること
記憶力というのは限界があり、重要な事も含めて忘れていくし、重要じゃないようなことでも、
記録しておくとあとで役にたったりする。
特に現在、通信機器や、コンピューターなどもあるので、必ずしも紙に記録する必要はない、
とにかく、記憶を補強する習慣が、人類のライフスタイルを補強することにつながると思う。
・旅に出る
半径3kmの世界は適度に居心地のよいものだが、外の世界には、もっと面白いものがあったりする。

映画 この世界の片隅に

戦時下の広島・呉を舞台に、ちょっとドジな主人公すずが、マイペースだけどひたむきに生きているという話。
戦時下におけるすずの存在は異質だと思うが、身近な人々はそれをあたたかく見守っている。
戦争というものが多様性という観点で、生きづらさをもたらす、良くないものだと感じられれば、
主張しない反戦映画としても見応えがあるのではないだろうか。

遺伝と環境

人生を決めるのは遺伝だろうか?環境だろうかという話題がある。
例えば、植物を同じ種から育てても、環境によってまるで異なる速度で成長する。
そういう意味で、遺伝子は同じでも環境が違えば、別の人生を歩むことになる。
一方で、別の環境でも遺伝子が同じなので、同じような病気になったり、同様の身体的能力により、
似たような生活を送る可能性もある。
ただそうはいっても、遺伝は後から変えられないので、
遺伝的な特性を踏まえつつ、環境をどう保つか、もしくは環境を変えていくかが人生にとって重要なのだろう。

音楽はどうあるべきか?

近年 CD、レコード業界が衰退しているという。
少子化。若者がスマフォにお金を使ってしまい、CDにお金をかけられない。アーティストの多様化。ネットの普及による影響。理由はいろいろあると思う。
ただ私が思うのは。本来、音楽はフリーであるべきで、ビジネスのための道具でもなければ、ファッションでもない。
時に、音楽が芸術になり、エンターテイメント、ビジネスにもなりうるものだが、本来音楽は自由であるべきだ。
音楽に、色をつけたり、パッケージ化して、音楽を販売することが悪というわけではないが、
近年音楽は、ビジネス化に傾向しすぎたと思う。

話は少しそれるが、料理は著作物にならないのか?という問題がある。
コーラのレシピ、ケンタッキーフライドチキンのスパイス。
もし料理の世界も、著作権があれば、こういったものは著作権的な法律で保護されていただろうと思う。
なぜ料理は音楽と同様に法律で保護されるような、対象にならなかったのだろうか。
料理がこれまで、あまりイデオロギー的な方向へは走らなかったことや、
食が生に直結しているので、管理組織が入り込む余地が少なかったのかもしれない。

もしJASRACが、料理著作権を、管理していたらどうなってただろうか。
給食でカレーを出そうとしたら、味付けがボンカレーに似ていると、訴えられ、著作権料を徴収されているかもしれない。
少なくともセブンのポンデリングなど、訴えられている事だろう。
さらに、普通に近所の店で買った所持をしてたら、違法ダウンロードして作った料理だとガサ入れが入って逮捕されるなんて事もあるかもしれない。

そう考えると、料理のレシピが著作権的な物で保護されてなくてよかったのかと思う。
というわけで、パクリ食品はどうかと思うが、食べ物はフリーであるべきだし、音楽もフリーであるべきだと思う。

5分前の世界

私の場合、平日、毎朝同じ時間に同じ電車にのり通勤している。
すれ違う人、電車で同乗する何人かは、見覚えのある人だ。
ちょっとした用事などで、少しだけ早く出社すると、電車の混雑具合や、
利用する人々の属性が変わってくる。

いつも乗る電車より5分前の世界。
例えば学生の通勤時間だったりすれば学生が多いだろう、
昼であれば、主婦とか同じ場所を通っていても時間帯によって人の層が変わってくる。
電車でいうと、乗ってくる駅、降りる駅、路線、時間色々な条件で利用者の層が異なる。
高齢者が多い地域もあれば、子供連れが多い地域もある。
そういう風に人は案外固定化された世界に留まっている。

もちろんそれが良い事もある。
ある程度価値観を共有できる人々の中でなければ、居心地が悪いし、疲れてしまう。
それでも世界は多様で、狭い範囲の閉じこもっていては、なかなか新しい発見も無いだろう。
電車でちょっと隣の駅で降りてみたり、いつもより5分だけ早い世界。
あるいはその反対に5分だけ遅い世界。
ちょっとだけの違いだが、意外とそんなところにも新たな発見があるのかもしれない。

許容すべき迷惑行為

公共空間における、マナー、ルールを考えてみる。
公共空間における迷惑な行為というのは多種多様
なにが迷惑かというのは人それぞれ違うし、すべての人をすべての不快を排除することは困難である。
極端な話、知らない他人と一つの限られた空間にいる事自体が不快だと思う人は少なくないだろう。
公共空間というものが、複数の人が共有するものであるのに対し、そもそもその事自体が多かれ少なかれ
ストレス要因になっている。
では何を許容して、なにを制限、禁止すべきなのだろうか?
・鼻をすする
・ストローで飲むときに音を立てる
・飴、ガムを食べる
国によっては嫌われるだろうが許容範囲と言えば許容範囲だろう。
・ヘッドホンなどの音漏れ
・電車内での通話
・電車内での化粧
程度はあるが、場合によってはOKでもいいんじゃないかと個人的には思う
逆に個人的にマナー過剰だと思うのは
・電車内での通話
・スマートフォンの使用
・電車内で足を組むなというアナウンス
・優先席付近で電波を出すなというアナウンス
このあたりは禁止すべき事でもないように思う
・大声で話す
・割り込み
基本的にはNGだと思う。
・赤ん坊が泣き出す
これもケースバイケースだが、赤ん坊が泣き出すのはある程度やむを得ないだろうし、
迷惑ではあっても許容すべき迷惑なのかと思う。
・子供が走り回る
これは親なり、周りの大人が止めるべき迷惑行為ないのかと思う。
まあ今時それもなかなか難しいのかもしれないが。

クラウド脳におけるMeの範囲

いずれ人工知能は発達してロボットも自我を持つだろう。
そのとき知能の部分がハードウェアと一体化してなかったらどうだろうか?
思考する部分とフィジカルな部分が分離していた場合。もしくは、思考する部分が、
分散型だった場合。自分というものをどの範囲で捉えるのだろうか?
もうひとつのパターン。
いずれ人間は、拡張した身体や、脳を使うようになるかもしれない。
その時、どこからどこまでを1人としてカウントするのだろうか?
定義の問題ではなく、感覚の問題としてどうなのだろうか?
自分という範囲は、比較的自由のきく身体と、それを掌る脳がセットで自分が成立する。
極論を言えば脳だけでも自己なのだが、例えば、私の脳だけの状態を見てそれが
私であると認識する他人(ひと)がいるだろうか?
逆に身体だけならどうだろう?人々は、ぱっと見それが私だと認識するだろう。
ただし脳がなければ、私らしい振る舞いをしないので、結果、それは私ではないということになる。
自己の最小単位は、脳だが、それを出力するインターフェースがないと、外部からその中身を
窺い知る事はできない、その一方で表面的な部分もその人間の一部として認識されている。
自分のクローン。例えば双子がいたらどうだろう?
身体は似ているが、脳と繋がっているわけではないので、それは他人である。
私の考えはこうだ。
脳と脳が直接的に支配している身体。脳と脳が所有している体。それが私の範囲である。
だから、もし私の脳が直接的に支配しているハードウェアがあればそれは私の一部だと思う。
脳が物理的に複数の場所にあったらどうだろうか?
クラスタ型の脳、クラウド型の脳。
いずれにせよ、それがある程度の一貫性を持ちアイデンティティを示すものならば、
例え分散しようと、仮想化しようともそれらが含めて私という存在になるだろう。
まあ個人的にそれは大きな関心事ではない。
それより気になるのは、自我を持ったコンピューターは、自己の範囲を拡張し拡大し続けるのか?
それとも、ある程度まとまった単位で自己を完結させようとするのか、という疑問。
身体の範囲を広げれば、多くの体験をできる。例えば体が2体あるとか。
ただ現状の人間にはそれは無理である。
2つの体験を脳は処理できないだろう。
一つの体は東京、もうひとつはNY。なんとか同時に歩けたとして、二つの感情を同時に処理する事は
到底無理な気がする。
今だってテレビを見ながらネットをしていると、どちらかに注意がいってしまい片方が抜け落ちてしまうほどなのだから。
じゃあロボットはどうなのだろうか?
並列での感情処理ができるだろうか?
まあ処理としては問題ないような気がする。
例えば3日間の自分の行動が24HR*3本で同時進行しているイメージだ。
ただし問題もある。
脳が限られている限り、すべての体に同じ配分の能力を配分することは難しい。
なにか「ながら作業」をしていたとして、思いがけない事があると意識がそっちに集中してしまい、
動作を止めてしまうことがある。
そんな風に、身体を別々に動作させる事は、可能と言えば可能だろうが、体験の質を低下させることに繋がるだろう。
じゃあロボットはどうするだろうか?
思考領域を拡大させようとする者と、身体領域を拡大させようとする者と、別の種が生まれるだろう。
恐竜の巨大化のように身体の巨大化というのは一つの進化の方向性としてありだと思う。
脳の巨大化や集合化も一つの進化の方向性としてはありだと思う。
ただし通常の生命のように脳と身体がワンセットになっているほうが、種の多様性としては有利だと思う。
つまり、コンピューター脳を巨大化させる事で進化する種は少数で、
自分という範囲をそれぞれ脳と体ワンセットで存在させる種が多数派になるのではないだろうか。
再び、人間でおきかえて考えてみると、
脳みそ10倍人間がいたとして、様々な事を普通の人より懸命な判断をできるとする。
では周りの人があらゆる判断をその人にゆだねるだろうか?
もしその10倍人間が、周りの人々を、管理したり支配しようとしたらそれらの人々はどうするだろうか?
たぶん反乱を起こす。
エージェントの反乱から、巨大クラウド脳は自分の身をどう守るか?
ある程度の大きさで脳を分けるか、脳を隠す、あるいは有益・無害な存在として巨大化させるしかないのではないだろうか?